ブラックパンサー党は1966年にヒューイ・ニュートンとボビー・シールが米カリフォルニア州オークランドで結成した。組織は1980年代初頭に解散したが、市内にはブラックパンサー党をたたえる壁画などが残ると記事は伝えている。
ヒューイ・ニュートンの妻フレドリカ・ニュートンは、Peralta通りと11th通りの家を党の本部だった場所として紹介した。党員が武装して警察の動きを追跡したことや、発行部数30万部の新聞で人種を巡る闘争を記録したことも説明されている。党の旧事務所の一つであるGrove通り(現在のMartin King Luther Jr. Way)では1969年、緊張が高まる中でオークランド警察の警官2人が正面の窓に向けて発砲したとされる。ヒューイ・P・ニュートン財団のエグゼクティブディレクター、ザビエル・バックは、党がFBIの対諜報活動プログラムの下で電話盗聴や情報提供者の潜入などを受けたと述べた。
史跡の保存は難航していると記事は報じる。Peralta通りの家には史跡としての価値を示す非公式の銘板があったが、撤去されたという。オークランドにあるブラックパンサー党の遺産を示す公式の恒久的な記念物は1つだけで、Mandela ParkwayとDr. Huey P. Newton Wayの中央の緑地に設置されたヒューイ・ニュートンのブロンズ胸像だとされる。フレドリカ・ニュートンは、党が悪魔化され歴史から排除されたとして、恒久的な形で像を残す狙いを語った。胸像の場所は、ヒューイ・ニュートンが1989年にBlack Guerrilla Family刑務所ギャングのメンバーに殺害された場所から1ブロックだという。
記事によると、オークランドには重要なブラックパンサー党関連地点が13カ所ある。St. Augustine’s Churchの旧跡など一部は荒廃しているという。1969年には同教会で、学童向けの最初の無料朝食プログラムが始まり、その後FBI長官のJ・エドガー・フーバーがブラックパンサー党を国内治安に対する最大の脅威と呼ぶメモを出したとされる。バックは、フーバーが懸念したのは銃ではなく、無料朝食プログラムや地域での組織化だったと述べた。党は無料の食料・衣類配布、高齢者向けの無料送迎、診療所、鎌状赤血球貧血の検診などを含む65のサバイバルプログラムを作ったとしている。
記事は、こうした活動の多くが西オークランドのDe Fremery Parkで行われたと伝える。党は同地を、1968年の衝突で警察に殺害された17歳のボビー・ハットンをたたえてBobby Hutton Parkと呼び始めたという。バックは、党の歴史は全米だけでなくオークランドでも争点で、遺産を巡っても争いがあると述べた。さらに、オークランドの重要地点を認定する国立公園のプロジェクトは、トランプ政権が史跡保存の助成金を打ち切り、頓挫したとしている。ヒューイ・P・ニュートン財団は、地方および州当局と連携し、より完全な物語を伝える歴史的ランドマークの認定を進めているという。
